2010年01月20日
答志島

我が家の本棚にある、三島由紀夫・著の『潮騒』をめくると、こんな風に始まっている。
「歌島は人口1400、周囲一里に充たない小島である。」
その後、島の中でもっとも美しい場所のひとつという、八代神社からの眺めはこう表現されてある。
「ここからは、島がその湾口に位いしている伊勢海の周辺が隈なく見える。北には知多半島が迫り、東から北へ渥美半島が延びている。西には宇治山田から津の四日市にいたる海岸線が隠見している。」
巻末の解説によると、三島氏が「歌島」と表現している島は、伊勢湾入り口にある「神島」のことで、昭和28年に2度、彼はここを訪れて小説の下地取材をしたと思われると、書かれてあった。
昭和28年というと、今から一体何年前?今、彼の小説の舞台となった神島の人口はどれ位なのかしらん?と、興味がわく。
ところでこの神島は、伊勢湾口にある四つの有人島のうちのひとつで、大きい順に答志島、菅島、坂手島、そして神島と言うらしい。
ふむ~、これらの島々へ是非行ってみたい。
さらにこの希望、私の場合はもうひとつの目的をもって、実現してみたい旅でもある。
・・・というのも、その一番大きな島である、答志島(とうしじま)に、幼なじみが住んでいるんだわ、これが。
その友に、会いに行きたい~☆
彼女は私と同じ幼稚園、小学校、中学校を共に過ごし、小学生の頃は一緒に子ども会のソフトボール部に入り、まぐれでたま~にヒットを飛ばす私と違い、いつも安定した打率を維持するとても運動神経に優れた人だったのん。
そんな彼女が結婚して答志島へ行き、島の宣伝のためにも身を削り(笑)、しょっちゅうメディアに登場するのも、凄くよくわかる。信頼できるし、考え方は子どもの頃から正しかったし、そうそう、私たちの学校は「特別養護学級」があったけれど、そこに属する同級生の面倒をとても良く見ていた。
大人でもなかなか出来ないことを子どもの頃からやり続けていたんだもん、そりゃぁ凄い大人になる訳だわ。
って、もういい?
その友が近々、今度は中京テレビの番組に登場するらしいので、東海地区の方は是非見てね。さらに放映後はwebで動画が見られるようなので、このブログを読んでくれている幼なじみの、Cちゃん、Aちゃん、Sちゃん、Sくん(またの名を、A兵)!必見ですぜ、これは。(笑)
それが誰かは、放映後のお楽しみという事で・・・。
ウッヒッヒ。
■『あなたに逢いたくて・・・』(中京テレビ)
└http://www.ctv.co.jp/anata/
■答志島旅館組合HP
└http://www.ymd7.com/trk.htm
2010年01月20日
博多へ行くなら新幹線

先週、夫の友達夫婦と会食した。
彼らも最近結婚したアラフォー夫婦なので、互いに共通する点も多く、「やっぱ人間、最後はハートよね。ハート」などと、老人めいた4人の会話は続き、延々と焼き鳥を食べ、くだを巻き続けた。
その時、たまたま博多の話になり、私の頭の中で「博多」という言葉が鳴り響いていた時に思い出したCMがある。
関西にいた時にはもちろん観たこともないものが、ここ名古屋では沢山流れているが、このCMは一度聞いたらしつこく耳に残り、どうもいけない。
つい先日も、散歩をしていたら口をついて出たのがこのCMのリズムで、どこの広告代理店が作ったのかはわからないが、意図どおりに私ははまり続けている。
「博多へ行くなら新幹線、パッパッパ~」
歩いている間中、ずっとこれを口ずさんでいたのだから、相当だ。
さらに、新幹線がらみでもうひとつ気付いたことがある。
今は昔、山下達郎さんのクリスマスソングで一世を風靡した、牧瀬里穂さん出演のCM。
大阪にいる頃、私はあれを「東京駅」で撮影したのだと、思い込んでいた。先週、神奈川から遊びに来た叔母に聞くと、彼女は「新大阪駅」で撮影したのだと思っていたらしい。
ところがあれ、実は名古屋駅での撮影だったことに、「懐かしのCM特集」という番組を観ている時、夫が気付いた。
「へっ。では、あのCMの中で流れていたストーリーは、東京(もしくは大阪)と名古屋で遠距離恋愛するカップルの物語だったわけ?」と、拍子抜けした。
いやいや、東京や大阪とは限らず、もしかすると静岡と名古屋間の恋愛、もしくは米原と名古屋間の恋愛かもしれず、とにかく牧瀬さんは、名古屋在住という設定だったのね・・・と、びっくらした。
とういうことはあれかな?彼女は彼と会った第一声で、こう言ったのかな?
「しばらくぶりだがね~」(←私が習得した名古屋弁)
違う土地に住むと色々な発見があり、本当退屈しない。
■「博多へ行くなら新幹線:観光編」CM
└http://www.youtube.com/watch?v=0EvC7XD-wck
■「博多へ行くなら新幹線:出張編」CM
└http://www.youtube.com/watch?v=8O4PGW8joGY&NR=1
■「クリスマスエクスプレス」CM(牧瀬さん分は2番目に流れます)
└http://www.youtube.com/watch?v=ZGu7SGxNWyo
2010年01月05日
寅年スタート
聖徳太子が寅年、寅の日、寅の刻に毘沙門天(七福神のなかでも、商売繁盛、金運如意、開運招福、心願成就の得を最も厚く授けてくださる福の神らしい)を悟り作られたという言い伝えがある寺がある。
それは、大和国(奈良県)と河内国(大阪府)の境にそびえる生駒山地にある信貴山腹に位置する。名は、信貴山 朝護孫子寺(しぎさん ちょうごそんじ)。
聖徳太子くんが悟りに目覚めたのは582年で、そのお陰で587年に物部守屋を討伐できたらしい。
フムフム。
彼ゆかりのものが残っているのが、奈良県らしくていいわぁ。
さらに、この寺のキャラクターは上記理由により寅のため、寅年の今年は縁起を担ぐ参拝客でごった返したと思われる。
それで。
その寺の側には「信貴山観光ホテル」という、実家の両親と私の中では「穴場」と思っているホテルがあり、ここは温泉だけ浸かるのもOK。
値段は、タオルなしが1,000円で、タオルありが1,200円。ただし、ホテル内で食事をすれば、500円を返金してもらえる。(正月以外はタオルなしが800円)つまり、純粋にお風呂に入る料金は500円で、500円はデポージット(預かり金)というワケ。
それほど大きい訳ではないが、清潔な風呂場には露天もあり、寺の一角を眺めることが出来る。さらに、その風呂場の前には信貴山の自然が広がり、春には桜がそれは見事なのだそうだ。
お正月に実家へ帰省した私たち夫婦は、両親を誘ってここを訪れ、温泉三昧をした後、ホテル内のお食事処で昼ごはんを食べた。しかも運転を買って出た父以外は全員昼間からビールも飲んだ。
寅の張子も買ったし、寅饅頭も買ったし、今年は年初から幸先いいんちゃうのん?
しかし。
私たちは温泉に浸かっただけで、実は寺への参拝をしてない。何でやの?!と、わが家族の行動を突っ込みつつ、2010年の幕は開けたのだった。
それでは、今年もこのブログをどうぞ宜しくお願いいたします。
■信貴山 朝護孫子寺
└http://www.sigisan.or.jp/
■信貴山観光ホテル
└http://www.shigisan.co.jp/
2009年11月24日
中央道


八ヶ岳に関して、何やらかんやらごたくを並べたが、要はワタクシ、かの地をとても気に入った。
15年前にここを訪れた時は、人の結婚式だったので、観光らしきものは殆どせずにとんぼ返りをした。「綺麗だったけど、遠かった」というイメージしか残っていなかったが、今回の旅で、その「距離に対する苦痛」が和らいだ。
行きは、我が家を出て、名古屋インターチェンジから東名高速に入った後、小牧ジャンクションを経由して中央道へ入り、諏訪南インターで降りた。
要した時間、約3時間。連休の初日だったせいか、中央道に入るまでが少し混んだ。
帰りは、中央道の小淵沢インターから入り、同じく小牧ジャンクションを経由して東名高速へ。名古屋インターで降りて、我が家まで、約2.5時間だった。
この早さに、関西人の私は、ビックリ仰天。
大阪から八ヶ岳へ旅したとすると、大阪-名古屋間で、プラス2~3時間はかかる。大阪在住の頃、中央道を利用して長野方面へ時々旅したが、帰りに名古屋まで戻っても、「あぁ、これからまた名神で一仕事かぁ~。京都でまた混むんやろな~」と、暗い気持ちになっていた。
ところが今回、感覚的には「あっ」という間の移動だった。
名古屋ー八ヶ岳間は、近い。
名古屋から中央道を走り、岐阜・長野・山梨を抜けるイメージで、東京までの距離と時間を考えると、JR東海のリニアモーターカーが開通すれば、本当に名古屋-東京間を45分で行けるのかもしれないと、初めて実感がわいた。
「東京からも中央道を利用して、2時間程度で八ヶ岳へ来られるらしいから、これなら東京在住の親戚や友人たちも集合出来るし、ちょうどええわ~」
私がそう言うと、夫は首をかしげた。
「何の話?」
「私たちが八ヶ岳に家を持ったら、避暑やら遊びで、たぶん東京や名古屋から人がわんさか来て、寂しくないっちゅうことやん」
「えっ?八ヶ岳に住むの?俺の仕事は?」
「名古屋のままで大丈夫やでぇ。社宅でも借りて、普段はそこに住むねん。そんでもって、月に1,2度、こちらへ来たらいいやん。あ、私が基本は八ヶ岳に住むから、家の管理は任してちょ」
「・・・」
「・・・?」
「・・・結婚している意味、あるかしらん?」
「・・・ないかしらん?」
でも、夫もまんざらではないようだ。帰宅した翌日には、ネット不動産を検索し、八ヶ岳近郊の土地価格、物件価格を、目を皿のようにして眺めていた。
しかし、私は知っている。
八ヶ岳山麓は長野県と山梨県にまたがっている。長野県へ学生時代、スキーをするため通い詰めた私は、いかに寒い地方の冬が厳しいかを身にしみて味わった。
まぁ、名古屋から3時間程度で行けるなら、旅行で楽しむ方が無難だわね。さらにリニアが出来れば、八ヶ岳なんて、20分程度で行けるかも!
私が嬉しそうにそう言うと、「そのリニアの完成、たぶんルートもまだ正式発表されていないのでは?」と、冷静な夫。
はぁ、そうか。それなら完成は、まだまだ先の話だわな。
せめて、もちっと、後に生まれれば良かったな、私(たち)。
2009年11月24日
八ヶ岳

晩秋の八ヶ岳へ行った。
気温は、名古屋市と比べると10度は低く、紅葉も終わり、冬の訪れを待つ一瞬の合間の時間。寒いだけでは嫌だと向かった地だが、空気は澄み、葉がすっかり落ちた木々の間からは、遠くにそびえる富士山までもが見える。
「これを、裏富士と言うのか」
と、新幹線の中や東名高速から眺める表富士しか記憶にない私は、「シワの入り方が違うなぁ」とつぶやいた。
「シワ?」と訝しげな顔をする夫に、「つまり、稜線のこと」と、説明をして、見事に晴れ渡った空の中に鎮座する山に見惚れた。
八ヶ岳のふもとには、心奪われるものが沢山あった。
それと同じくらい、全く共感できないものもあり、それはやっぱり「商業ベース」にのっとった、どこか嘘っぽい建物やサービスだったのだと思う。
陳腐な作りの建物などはわかり易い。ベニヤ板すれすれかと思うような板で作られた店。こういうものはむしろ滑稽で、少しだけ愛着までもが湧く。
やっかいなのは、わかりにくい店だ。
八ヶ岳山麓で採れる果実で作ったジャムを売る店など、店の内装もジャムを入れている瓶も、その味も間違いなく「おしゃれで、美味しい」。店主がそこで売るジャムのレシピを本にしたものも陳列されてあり、きっと人気もあるのだろう。でも、私の心には響かない。
何かが違うのだ。
それは何だろうかと考えると。
「どうだ!私たち、超イケテルでしょ?こんな素敵な店で、こんな美味しいものを売って、しかもレシピ本まで売っているのよ。やれ、どうだ。さぁ、買え!」という空気が満々に出ていて、居心地が悪いのだ。
しかも、客は買うのが当たり前という、どこか高飛車な姿勢で、それは八ヶ岳という土地にわんさか訪れる客が、彼らをそうさせているのかもしれないし、元々東京で「お料理上手」などと言われたマダムが、お金も時間もあるしと、山梨へ移住したのが商売の発端で、商売人に徹し切れていないマダム時代の「上から目線」が、今に至っているのかもしれないとも感じた。
そんな玉石混交の中でも、心ひかれたもの。
ひとつは、清里農村センター(キープ協会の前身であり、清泉寮を持つ母体)を作った、ポール・ラッシュさんが最初の施設として建てたという、畳敷きのある清里聖アンデレ教会。
立教大学で教鞭を取られていたポールさんが、太平洋戦争が始まる少し前、清里の人々に紹介したキリスト教の宗派が、聖公会という、私が通った高校と同じものだったせいもあるだろう。10代の多感な時期に教えられた、「清貧を心がける暮らしの中で、ものやひとを丁寧に、大切に扱う」というような馴染み深い精神が感じられ、心が落ち着いた。
清里の貧しい暮らしぶりに心を動かされた彼が、かの地に切り開いた様々な施設のお陰で、現在の清里があり、人を呼び込める土地へと変貌させたようだ。
きっと今は、あまりに観光客が増え、少しずつポールさんの思いとは違う方向へキープ協会が進む時もあるだろうが、質素な教会という軸が残っている限り、例えぶれそうになったとしても、元の位置へ戻ってこれるだろうと、感じた。
そしてもうひとつは、ネットで偶然見つけ、「ええい」とばかりに当てずっぽうで予約した宿。
家族経営で古くから登山客を受け入れてきた所だと思われ、一流シェフが調理するというようなきらびやかなものは何もないが、新鮮で美味しいものを食べてもらおうとする工夫が随所に見られ、心の底から満足できた。何と言ってもオーナー含む家族全員が、すこぶる善人なのが良い。ついでに犬が4匹に猫が2匹いたのも良かった。
ここで提供された素朴なジャムは、「上から目線のジャム屋」のものよりも、数百倍も美味しいと、私は思った。
柳生博さんの店も、映画『西の魔女が死んだ』のロケ地として作られた家も良かったが、それはきっと沢山の人が書いているだろうから、私はあえてもう言うのを止めよう。
晩秋の八ヶ岳。人も少なく、春や夏とは違った静けさがあり、だからこそ本来の八ヶ岳を容易に想像出来て、その魅力を見せつけられた気がする。
■清里聖アンデレ教会
└http://www9.ocn.ne.jp/~kandrews/11.html
■キープ協会(清里聖アンデレ教会、清泉寮などを持つ、全ての母体)
└http://www.keep.or.jp/ja/
■八ヶ岳の宿 高原旅館 野辺山荘
└http://www.avis.ne.jp/~yamayado/index.htm
2009年11月16日
山梨県
私が初めて山梨県へ足を踏み入れたのは、大学4年生の初夏。
短大を卒業し、社会人として数年を過ごしていた友が、23歳で結婚をすることになり、その時相手の方がたまたま甲府に駐在していたので、そこで式があったのだ。
新幹線で東京まで行き、そこから中央線に乗ったのを覚えている。国立を通過する時、「あぁ、これが人気漫画、『くにたち物語』の舞台になったところか」と、思った。
その2年後、別の友が、また山梨で式を挙げるというので、今度は春の八ヶ岳へ向かった。
この時は新幹線で名古屋まで来て、そこから中央線に乗り、果てしなく電車に乗り続けた後、到着した駅からまたバスに1時間近く揺られ、ようやくその会場に着いたのを覚えている。ほぼ1日がかりの移動だった。
残念ながら2人共、その時の相手とはすでに離婚をしたが、今は別の人と再婚をして幸せに暮らしている。
「山梨くんだり(関西人にとっては、そういう表現をしたくなるほど、北海道よりも沖縄よりも遠い場所である)まで行った、あの労力は何だったのか?」と、言いたくなるが(笑)、山梨県はとても魅力的な県だと理解できたのは良かった。
何事も経験である。
それからしばらく時間を置いた2年前の初秋に、東京在住の兄夫婦と共に、日帰りで甲府へ行った。
有名なワイナリーでワインを買い、食事をして帰ったが、東京からだと本当に近い行楽地であるのを実感し、改めて、「関西から山梨は何と遠いことよ」と思うに至った。
そして・・・
私たち夫婦は、次の3連休を利用して、今度は八ヶ岳へ行く。
夫が急に、「八ヶ岳へ行くか~」と言い出したので、これ幸いとばかりに私はその案に乗った。
と言うのは、会社員時代に仲良くしていた友が、柳生博さんが運営するレストランへ行った後、そこを絶賛していたのを覚えていた。さらに少し前、ここ名古屋で知り合った友もその場所へ行き、「ほっほっほ~。柳生夫人が考案した、フルーツティーポットを買っちゃった」と、買ったばかりのポットでいれたお茶をご馳走してくれたのを機に、私の中で山梨熱が一気に加速していたのだ。
何故か、私にとっては「甲府、八ヶ岳、甲府、八ヶ岳」と、律儀にもその順番を守っているかのようなめぐり合せで笑えるが、果たしてこの時期の八ヶ岳、観光としてはどうなのだろう。
「はっきり言って、なぜ今、八ヶ岳?」と、すでに紅葉も終わったであろう、かの地を思うと、防寒対策は欠かせない。
「やっぱ、山梨はええなぁ~」となるのか、「時期によるで~」となるのかは、行ってからまた、考えよう。
■八ヶ岳倶楽部
└http://www.yatsugatake-club.com/index.html
2009年11月04日
多治見修道院

私たち夫婦、「本当は、岐阜県に住んだ方がいいんじゃないの?」と思うくらい、毎週末のように、岐阜へ行っている。
互いの実家は西と東に分かれていて、愛知県には親戚の一人もいない。(あ、期間限定の単身赴任で、叔父がひとりだけ名古屋に住んではいる)つまり、特に2人とも、この県に執着がある訳でもないから、いつでも引越しは可能で、いつか森があるような緑の多い環境で過ごせたらいいなぁ・・・なんて夢はある。
ところで、名古屋に引っ越して間もない頃、ここで働く人の多くが岐阜から来ていたり、三重から来ているのに驚いた。
「えっ!!岐阜からわざわざ?」と一瞬驚いたが、何のことはない。
電車で30分もかからないところに岐阜や三重の街があり、充分に通勤可能範囲なのだ。
そう考えると、私も思い出すことがある。
私が通った高校は大阪市内にあったが、クラスメイトには、大阪府内全域から通う者は当然のこと、兵庫県、京都府、奈良県、和歌山県から通う友もいた。もしかすると、大津あたりだと殆ど京都市なので、滋賀県から来ていた人も、ひとりふたりはいたかもしれない。
結局、公共の乗り物が発達すると、中心を成す都市へ行く時間はそれほどかからず、広い範囲のところから人が集まる。そうすると、そこはある種、人(県?)種のるつぼになり、異文化コミュニケーションが起き、時に物凄く秀でた人物が生まれたりするのだと思う。
きっと、東京の強みはここにあるのだろうな。
「おら、東京さ行くだ~!」という位のガッツのある人間が沢山集まり、エネルギーがぶつかりあって、すごいものを生み出す。
とは言え、「井の中の蛙は、大海を知らずして、天空を知る」らしいので、生まれた土地に根を張って、そこでコツコツ働き、「東京さ行った」人よりもかなり奥行きのある深い悟りを開く人もいると思う。
あぁ、それで岐阜県。
緑たっぷりな自然と、陶器などの創作物が好きな私たちは、多治見であるとか、土岐であるとか、そういう場所へイソイソと出かけては、森の中に佇む喫茶店を見つけたり、ご飯をよりいっそう美味しく頂けそうな茶碗を見つけたりして、週末を過ごす。ついでに、帰りは温泉に入る。
そんな2人が最近見つけた、岐阜県多治見にある、修道院。
「ここは山梨県?」と思うような広い丘陵地帯にそれはあり、教会や研修所の建物も、どこかヨーロッパを思わせる。説明書きを読んで納得したが、どうやらここを建てた神父さんは、ドイツ人だったよう。
院内の広い敷地には、3,000坪の葡萄畑もあって、そこで採れた葡萄で、ワイン作りもしている。この休みには、有料で試飲できるワイン祭まで開催された。戦後、日本にワインが入らなかった時期は、ここから日本全国の教会へ、ミサ用のワインが送られていたようだ。
いや~、岐阜県って奥が深いわね。
飛騨高山や白川郷だけが岐阜県ではなく、行けば行くほど何かが見つかるこの県にはまりつつある私たち、いずれ「岐阜にウッディーな家を建てることにしました~」なんて言い出すかも?
その時はそれこそ、私がずっと憧れ続けている、ターシャ・テューダーさんのような暮らしをしてみよう。
■多治見修道院
└http://www15.ocn.ne.jp/~svd/
2009年10月19日
タイの思い出
タイ生まれのトイ・プーちゃんは超・キュート先月のこと。
子ども英会話講師講座で知り合った、私の家から3駅ほど東へ行ったところに住む女性から誘いを受け、彼女の家へ遊びに行った。
この女性、私より1歳下だが、子どもは3人いる。ご主人の仕事の関係で、タイのバンコクに暮らしたことがあり、その時の話が滅茶苦茶面白い。
「それでよく、生きて帰れましたな~」
私は感動しながら、アジアンテイストたっぷりなその家のリビングのソファに座り、タイで飼い始め、日本へ連れて来たという、トイ・プードルのかわい子ちゃんを撫で撫でしながら、冒険語に腹をかかえて笑った。
私自身は、一度仕事でタイを訪れたことがある。
その時の出張は、今考えても過酷で、シンガポール→マレーシア→タイへと移動し、担当していた新商品の説明を、現地人の営業マンに英語で40分かけて説明をする・・・という、食欲減退ものの仕事だった。
シナリオ原稿はちゃんと書いた。
でも覚えられない。
何度練習しても不安に苛まれ、出発前は時に、夜中ガバッと起きて、暗がりで暗記した英文を唱和する。
日本からシンガポールへ行く飛行機の中でも、機内食を楽しむどころではない。
とにかく不安で、原稿を眺めながら、ブツブツブツブツ練習を繰り返す。
当時はよく、「海外出張を何度も出来て、羨ましいわ~」と言われたが、海外は遊びに行くのが本物(?)で、仕事で行くものではない。旅費の清算はややこしいし、帰国後に出張報告書をまとめるのも、結局残業時間へとずれ込む。
その時の費用処理も、シンガポール・ドル、マレーシア・リンギット、タイ・バーツと3カ国にまたがったため、計算がややこしくて、頭がおかしくなりかける。私、典型的なアナログ人間で、計算は大の苦手ときているから、これがまたひと騒動だったのだ。
そんな怒涛の出張もようやく終わりが見えた最後のタイで、首都のバンコクから、勤務していた会社の工場があるアユタヤへ、黒塗りベンツのような高級車で移動をした。
本当はバンコクで出張は終了予定だったが、当時アユタヤに駐在していた"偉いサン"が、「せっかくバンコクまで来るなら、仕事を作ってあげるから、こちらまでいらっしゃい」と、呼んで下さったのだ。当時はまだ日本全体に体力があったので、会社も同じく余裕があったのだろう。
バンコクからアユタヤへ移動する途中、車は遠くまで広がる水田地帯を通り抜けた。
その水田のそばの木の下で、休憩中と思われる農民が、アイスクリームをほうばっていた。その姿が、何とも昭和を彷彿とさせ、その時私は田舎に住む祖父母と過ごした幼少時代を思い出し、郷愁の念にかられた。
苦しかった一連の仕事のことも何もかも、吹っ飛ぶ程の穏やかな光景で、シンガポールのラッフルズホテルでご馳走してもらったシンガポール・スリングよりも、マレーシアで食べた絶品中華よりも、何よりもその農民の姿が心に残る出張となった。
それで結局、「・・・そんな訳で農民の姿が一番印象に残りました」なんて記述を、出張報告書の一文に添えておいたのだが、当然のことながら上司から削除指示を受け、渋々と当たり障りのない、そこそこ上出来の、でもあまり面白くない書類を提出したのが、もう10年も前の話である。
光陰矢の如しだ。
【追記】
このブログを書き終えた2時間後に、3駅向こうに住む、タイに住んでいた女性から近況を問い合わせる電話があった。先月会ったきり、特に連絡していた訳でもなく、ちょっと驚く。ちなみに彼女は、この「乱文でごめんブログ」の存在を知らないので、次回会った時に、お伝えしようかと、思う。(笑)
2009年09月08日
甲子園球場へ遠征



本日、私は甲子園球場まで阪神タイガースの応援へ遠征する。しかも同行者は、夫の同僚女性という、奇妙な組み合わせ!(笑)
その方が本来一緒に行くはずだった人が急遽用事で行けなくなり、それならば・・・と、何故か私に白羽の矢が立った。
「あそこの奥さん、虎キチだぜ・・・」と、社員たちの間で噂でもたっているのだろうか?と空恐ろしくなるが、まぁ、深く考えるのはよそう。
さらに、どうして名古屋出身のその同僚女性の方がタイガースファンなのかも謎だが、タイガースにはそれ程の魅力があるのだと、ファンとしては嬉しい限り。
ところが、試合相手を確認して、私は困った。
7月に、名古屋ドームで応援した組み合わせと同じく、相手は中日ドラゴンズ。
うっ。
ここに住み始めて1年もたつと、すっかりドラゴンズへも愛着がわき、とても「中日をぶっ倒せ~!!」という気分にはなれないのだ。もちろんドラゴンズに対しても「タイガースをなぎ倒せ~」とも思えない。
これではまるで、遠距離恋愛の末、近くに住む新しい彼と二股をかけ、前にも後にも動けなくなっている、男たらしのようじゃないか・・・と、がっくし肩を落とすが、仕方がない。人間とは、滅多に会えない遠くの人よりも、すぐそばにいる人(人か?)へ、愛着がわくものなのだ。
あぁ~、もちろんタイガースに勝って欲しいような、でもドラゴンズも負けて欲しくないような、複雑な気分で私は、名古屋駅を後にして、新大阪駅からJRで大阪駅まで行き、その後阪神電鉄へ乗り換える予定。途中、阪神百貨店で、イカ焼き含むお弁当を調達するやもしれん。
むむむ。
それにしても相手がジャイアンツなら、闘志をむき出しにして応援へ行けるというのに、全く残念だ。
・・・
と、言いつつ懐かしの彼(=タイガース)に懐かしの場所で会うと、新しい彼(=ドラゴンズ)なんかほっぽって、試合に熱狂するのかな、私?
2009年08月31日
夏の終わりの、夏休み。
わさび農園の、わさび
澄んだ川の水
ワイン農園の、ぶどう
国宝・松本城
旧・開智学校
美ヶ原高原
信州そば長野県が好きだ。
学生時代、体育会のスキー部に所属していた私は、冬の訪れと共に長野へ向かい、後期試験の期間だけまた関西に戻って、後は新学期の直前まで彼の地で過ごした。卒業論文も長野県で書いたし、青春につきものの多くの悩みも、同じクラブに所属する友と、そこで語り合った。
そのための軍資金は、もちろんアルバイトが頼り。
皆が遊びに興じる夏休みも、ただ黙々とアルバイト。春も、秋もずっとアルバイト。一時、私は午前中の授業を受けると午後は喫茶店で働き、そのまま夜に2軒、家庭教師のアルバイトをはしごする・・・なんて今から思えば神業?もこなしていた。もしかすると、合間にメンバーと大学そばの公園へとジョギングまで、していたかも。
スキーの為には、お弁当売りもしたし、開業間もない海遊館(=大阪にある水族館)で、切符売りもしたし、某・メーカーの研究室で、夏中延々と、焼けたパンの高さを測るなんてことも。喫茶店でコーヒーを運び、セレクトショップで服を売り、電気屋さんで、冷蔵庫のマニュアル片手に、お客さんからの問い合わせに答えたりと、職を選ばずとにかく働いた。
そこまでして通いつめた場所へ、だんだん行かなくなって、早?年。
関西からは、下手をすると一日がかりで移動しないとたどり着かない長野も、名古屋からだと3時間かからないことを、ここに住み始めて、気づかされた。日帰り観光も可能だなんて、嘘みたい。
「塩尻、岡谷、飯田・・・」
懐かしい地名と共に色んな思い出がびゅんびゅんと体中を駆け巡り、ちょっぴり切なく、そして懐かしい思い出に浸れた、夏の終わりの旅。
次は、紅葉の頃の穂高か上高地なんて、どうかしらん。
追記:夏休みだから特別に、久々の写真をアップ!
2009年08月05日
平和宣言 2009

2007年の夏に、秋葉広島市長が原爆記念日に読まれた「平和宣言」は、1枚の紙に印刷され、広島平和記念資料館に英語版と共に置かれてあった。その年のクリスマスに、そこを訪れた私はそれを見つけて持ち帰る。
同行したのはノルウェー人の女の子。日本に留学していた17歳の彼女は、ゆっくりと館内を見学した後、一枚の絵の前でその歩みを止めた。
カラカラに焼けてしまった女性の体が、風が吹くことでパラパラと崩れていく様子を表した絵で、館内を英語でガイドするボランティアの方によれば、それを描いたのは、その女性の娘さんだとの説明だった。自分の母親の最期を、核の悲惨さを伝えるために、エネルギーを振り絞って描いたのだろう。こんなにつらい絵を描かれた方の気持ちを考えると、戦争への強い怒りが私の中に沸々とわいた。
あれから、2年。
明日は、広島に原爆が投下されてから、64年目の夏を迎える。
■広島平和記念資料館
└http://www.pcf.city.hiroshima.jp/
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
2007年8月6日
広島市長 秋葉忠利
運命の夏、8時15分。朝凪(あさなぎ)を破るB-29の爆音。青空に開く「落下傘」。そして閃光、轟音ー成熟ー阿鼻叫喚(あびきょうかん)。
落下傘を見た少女たちの眼は焼かれ顔は爛れ、助けを求める人々の皮膚は爪から垂れ下がり、髪は天を衝き、衣服は原形を止めぬほどでした。爆風により潰れた家の下敷になり焼け死んだ人、目の玉や内臓まで飛び出し息絶えた人ー辛うじて生き永らえた人々も、死者を羨むほどの「地獄」でした。
14万人もの方々が年内に亡くなり、死を免れた人々もその後、白血病、甲状腺癌等、様々な疾病に襲われ、今なお苦しんでいます。
それだけではありません。ケロイドを疎まれ、仕事や結婚で差別され、深い心の傷はなおのこと理解されず、悩み苦しみ、生きる意味を問う日々が続きました。
しかし、その中から生まれたメッセージは、現在も人類の行く手を照らす一筋の光です。「こんな思いは他の誰にもさせてはならぬ」と、忘れてしまいたい体験を語り続け、三度目の核兵器使用を防いだ被爆者の功績を未来永劫忘れてはなりません。
こうした被爆者の努力にもかかわらず、核即応態勢はそのままに膨大な量の核兵器が備蓄・配備され、核拡散も加速する等、人類は今なお滅亡の危機に瀕しています。時代に遅れた少数の指導者たちが、未だに、力の支配を奉ずる20世紀前半の世界観にしがみつき、地球規模の民主主義を否定するだけでなく、被爆の実相や被爆者のメッセージに背を向けているからです。
しかし21世紀は、市民の力で問題を解決できる時代です。かつての植民地は独立し、民主的な政治が世界に定着しました。さらに人類は、歴史からの教訓を汲んで、非戦闘員への攻撃や非人道的兵器の使用を禁ずる国際ルールを築き、国連を国際紛争解決の手段として育ててきました。そして今や、市民と共に歩み、悲しみや痛みを共有してきた都市が立ち上がり、人類の叡智(えいち)を基に、市民の声で国際政治を動かそうとしています。
世界の1698都市が加盟する平和市長会議は、「戦争で最大の被害を受けるのは都市だ」という事実を元に、2020年までの核兵器廃絶を目指して積極的に活動しています。
我がヒロシマは、全米101都市での原爆展開催や世界の大学での「広島・長崎講座」普及など、被爆体験を世界と共有するための努力を続けています。アメリカの市長たちは「世界を攻撃目標にするな」プロジェクトの先頭に立ち、チェコの市長たちはミサイル防衛に反対しています。ゲルニカ市長は国際政治への倫理の再登場を呼び掛け、イーペル市長は平和市長会議の国際事務局を提供し、ベルギーの市長たちが資金を集める等、世界中の市長たちが市民と共に先導的な取組を展開しています。今年10月には、地球人口の過半数を擁する自治体組織、「都市・自治体連合」総会で、私たちは、人類の意志として核兵器廃絶を呼び掛けます。
唯一の被爆国である日本国政府には、まず謙虚に被爆の実相と被爆者の哲学を学び、それを世界に広める責任があります。同時に、国際法により核兵器廃絶のため誠実に努力する義務を負う日本国政府は、世界に誇るべき平和憲法をあるがままに遵守し、米国の時代遅れで誤った政策にははっきり「ノー」と言うべきです。また、「黒い雨降雨地域」や海外の被爆者も含め、平均年齢が74歳を超えた被爆者の実態に即した温かい援護策の充実を求めます。
被爆62周年の今日、私たちは原爆犠牲者、そして核兵器廃絶の道半ばで凶弾に倒れた伊藤前長崎市長の御霊に心から哀悼の誠を捧げ(ささげ)、核兵器のない地球を未来の世代に残すため行動することをここに誓います。
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August 6, 2007
Tadatoshi Akiba
Mayor The City of Hiroshima
That fateful summer, 8:15. The roar of a B-29 breaks the morning calm. A parachute opens in the blue sky. Then suddenly, a flash, an enormous blast - silence - hell on Earth.
The eyes of young girls watching the parachute were melted. Their faces became giant charred bliters. The skin of people seeking help dangled from their fingernails. Their hair stood on end. Their clothes were ripped to shreds. People trapped in houses toppled by the blast were burned alive. Others died when their eyeballs and internal organs burst from their bodies - Hiroshima was a hell where those who somehow survived envied the dead.
Within the year, 140,000 had died. Many who escaped death initially are suffering from leukemia, thyroid cancer, and a vast array of other afflictions.
But there was more. Sneered at for their keloid scars, discriminated against in employment and marriage, unable to find understanding for profound emotional wonunds, survivors suffered and struggled day after day, questioning the meaning of life.
And yet, the message born of that agony is a beam of light now shining the way for the human family. To ensure that "no one else ever suffers as we did," the hibakusha have continuously spoken of experiences they would rather forget, and we must never forget their accomplishments in preventing a third use of nuclear weapons.
Despite their best efforts, vast arsenals of nuclear weapons remain in high states of readiness - deployed or easily available. Proliferation is gaining momentum, and the human family still faces the peril of extinction. This is because a handful of old-fashioned leaders, clinging to an early 20th century worldview in thrall to the rule of brute strength, are rejecting global democracy, turning their backs on the reality of the atomic bombings and the message of the hibakusha.
However, here in the 21th century the time has come when these problems can actually be solved through the power of the people. Former colonies have become independent. Democratic governments have taken root. Learning the lessons of history, people have created international rules prohibiting attacks on non-combatants and the use of inhumane weapons. They have worked hard to make the United Nations an instrument for the resolution of international disputes. And now city governments, entities that have always walked with and shared in the tragedy and pain of their citizens, are rising up. In the light of human wisdom, they are leveraging the voices of their citizens to lift international politics.
Because " Cities suffer most from war, " mayors for Peace, with 1,698 city members around the world, is actively campaigning to eliminate all nuclear weapons by 2020.
In Hiroshima, we are continuing our effort to communicate the A-bomb experience by holding A-bomb exhibitions in 101 cities in the US and facilitating establishment of Hiroshima-Nagasaki Peace Study Course in universities around the world. American mayors have taken the lead in our Cities Are Not Targets project. Mayors in the Czech Republic are opposing the deployment of a missile defense system. The Mayor of Guernica-Lumo is calling for a resurgence of morality in international politics. The mayor of Ypres is providing an international secretariat for Mayors for Peace, while other Belgian mayors are contributing funds, and many more mayors around the world are working with their citizens on pioneering initiatives. In October this year, at the World Congress of United Cities and Local Goverments, which represents the majority of our planet's population, cities will express the will of humanity as we call for the elimination of nuclear weapons.
The goverment of Japan, the world's only A-bombed nation, is duty-bound to humbly learn the world. At the same time, to abide by international law and fulfill its good-faith obligation to press for nuclear weapons abolition, the Japanese government should take pride in and protect, as is, the peace constitution, while clearly saying " No, " to obsolete and mistaken US policies. We further demand, on behalf of the hibakusha whose average age now exceeds 74, improved and appropriate assistance, to be extended also to those living overseas or exposed in "black rain areas."
Sixty-two years after the atomic bombing, we offer today our heartfelt prayers for the peaceful repose of all its victims and of Iccho Itoh, the mayor of Nagasaki shot down on his way toward nuclear weapons abolition. Let us pledge here and now to take all actions required to bequeath to future generations a nuclear-weapon-free world.
2009年07月31日
MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島

名古屋へ引っ越すまで10年以上、髪の毛を切り続けてもらった美容師さんへ連絡をして実家まで来てもらい、母娘ともにカットをしてもらう。
この美容師さんはフリーとして仕事をされているので、こういう自由がきくのが、とても有難い。
チョキチョキ
「私、来週は、広島に新しく出来た『MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島』へ、阪神の応援へ行くのですよ」
私が彼女へ頭を預けながらそう言うと、その人もこう答える。
「えっ?!私もですよ」
ぎょえ~。世の中は、めっちゃ狭いなぁ。
チョキチョキ
私たちは原爆記念日がある来週の終わりに、それぞれ広島へ遠征をして、そして広島-阪神戦を観戦する。今年春にオープンした、『MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島』は、バーベキューをしたり、芝生にシートを敷いて横になりながら観戦出来る、バラエティに富んだ席を用意していると、随分話題になった。
私の切符は人任せにしてあるので、果たして阪神席に座るのか、広島席に座るのか定かではないが、まぁ、先日の中日戦同様、たとえ敵地の中にいようと、図々しいタイガースファンは、人目もはばからず、阪神を応援するのだろう。
そんな話をしながら窓から外を見上げると、空には入道雲がモクモクとはりついていて、いかにも暑そうだ。
「夏の野球観戦は楽しみな反面、すごく暑いのだろうな・・・」と、私は鏡の中に映る涼しげな自分の髪の毛を見つめながら、そう思った。
・・・
球場では、さぞかしビールを美味しく飲めるだろう。
■MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島
└http://stadium.rcc.jp/
2009年07月24日
ぴょんぴょん舎の、盛岡冷麺

盛岡から戻った後の私は、自分で自分が何をしているかを考える余裕なく過ごした。
子ども英会話講師受講は佳境に入り、最後の模擬レッスン試験が迫っていた。さらに、実際に教えている友人の子どもたちへのレッスンもあった。月に1度通っている料理教室のレッスンもあった。興味深いテーマで書く、エッセイのお仕事依頼が入り、その打ち合わせもあった。加えて、春に受けた人間ドッグで再検査になった項目の診察もあって、何と、その間に簡単な手術もした。
「このまま倒れるんじゃないか?」と、心配になり、ニンニクをわしづかみにして食べたりなんかして、お茶を濁した。
寝不足で頭も痛く、首も凝るし、何だかふらついている。
それでも、会社員時代の一番忙しかった時よりはマシだと思えたので、当時がいかに忙しく、毎晩深夜近くに帰宅し、コンビニ弁当をむさぼり食う自分の生活が異常だったことを、振り返る。
そんな慌しく過ごす日のある晩に、携帯電話が鳴った。ディスプレイを見ると、ご近所に住む同世代の女性からで、電話を取ると、受話器の向こうからは彼女の明るい声がした。
「海へシジミ狩りへ行って、沢山取れたのでおすそ分けしたいんだけど、今から持って行ってもいい?」
ワオ!ありがとう。
彼女は以前、アサリもくれた。彼女の家では、夫婦そろって魚釣りが趣味らしく、海のものを分けてくれる有難い人たちなのだ。
電話が終わると数分で、その女性は我が家へノーメークのままやって来て、私もノーメークで対応しつつ、盛岡で入手した、ぴょんぴょん舎製の、絶品「冷麺」を渡した。
この冷麺、かの地ではかなりの人気らしく、東京にも支店があるようだ。ここの麺を食べたことのある人は口を揃えて、「盛岡冷麺は、ぴょんぴょん舎のが、一番美味しい」と言う。
・・・という事で、その冷麺のご紹介をして、盛岡ネタはとりあえず、終了。
私は慌しく週末から今度は関西へ戻り、友人の結婚祝いやら、友人の墓参りやら、友人の引越し祝いやらなんやかんやと予定をこなすつもりだ。
神様、このまま体力がちゃんと持ちますように・・・。
そうだ。こんな時こそ、キムチ入りの、ぴょんぴょん舎製冷麺を食べれば、大丈夫かも?
■ぴょんぴょん舎
└http://www.pyonpyonsya.co.jp/
追記:ちなみに、このブログを書き終えた後、なんと!今度は釣り好き夫婦から、蟹が届いた。愛知県の海では、蟹も採れるらしい・・・。
2009年07月22日
小岩井農場へ行く

手元の冊子によると、小岩井農場が作られたのは、1891年(明治24年)。
共同創始者である、小野義真さん(日本鉄道会社副社長)、三菱財閥を築いた岩崎彌之助さん、井上勝さん(鉄道庁長官)、の3名の頭文字をとって「小岩井」と命名されたのだとか。
へ~、知らなかった。
日本最大級の民間総合農場として、100年以上も続いているその地は、私の中にあった「小岩井」と言う、イメージ通りの爽やかな場所だった。
宮沢賢治さんもここを何度か訪れて、彼の詩や童話の中へ、農場を登場させてあると書かれてある。
本当は、遠くにまだ雪が少し残った岩手山が望める春先に訪れるのが、最も綺麗な景色を堪能できるらしい。
ここで私は、特製のソフトクリームを舐めて、北海道にある花畑牧場でブレイクした「生キャラメル」の小岩井版を口に放り込み、そして青く澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
盛岡へ来る飛行機の中では、1時間半のフライト時間を利用して、まだ最後まで読めていない、この春訪れたリヒテンシュタイン公国で購入した『ハイジ』の本を読み続けた。
そのせいか、農場にいる牛やヤギを見ると、スイスを思い出す。
ドイツ語から英語に訳された本の中では、アニメ版でハイジが「ユキちゃん」と呼ぶヤギは、"Snowflake" と表現されていたけれど、まさに「雪片」のように白いヤギが、小岩井農場にもウジャウジャといる。
すでに分別ある大人になってしまった(?)私は、恥ずかしくて声に出して歌う事は出来ないけれど、心の中ではずっと、あの歌を口ずさんでいた。
"yo le lo le lo hi ho
yo hi du di ya ho ho
yo le lo le lo hi ho ya
la hi du di yo"。
・・・
小岩井農場は、スイスをちょっと感じられる、そんな場所かも?デス。
■小岩井農場
└http://www.koiwai.co.jp/
2009年07月21日
雨ニモマケズ

盛岡で過ごした3日間。
晴れたのは到着した日の午後と、帰るまさに1時間前のみ・・・と言うほど、「雨」に見舞われた旅程だったが、かの地で生まれ、創作活動をした、科学者であり哲学者であり、教育者であり詩人であり、そして童話作家でもある、宮沢賢治さんの言うとおり、「雨にも負けず」過ごした週末だった。
ちなみにこの、「雨にも負けず・・・」で始まり、「そういうものに、私はなりたい」で終わる詩を、盛岡市近辺で育つ小学生は皆、そらで言えるらしい。
関西で育つ小学生が、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり・・・」を呪文のように言えるのと同じことなのかしらん。(あるいは、これは、全国的?)
このそらで言えるって、ちょっと見には「ただの暗記なんじゃないの?」と思うが、実は大変奥深いのだと、私は思っている。
リズムでまず覚えたものは、ラジオ体操やダンスと同じく、そのうち脳を支配する。さらに、その後、同じリズムの文章を書けるようになる。これは、こども英会話講師をして、ほとほと実感している。
" How is the weather today ? " と聞かれて、"It's sunny." と言えるようになった子どもは、"It's rainy." とも、"It's cloudy." とも、さらには、" It's windy." とも言えるようになる。全部、リズムが同じだから、"It's" の後を置き換えすればいいと、類推できるようになっていくのだ。
つまり、宮沢賢治さんのような偉大な詩人を、また岩手県から生み出すためにも、彼が書いた作品を読み、さらに覚えるのは、とても有効的なことだと思う。
・・・と、また話がそれた。
私はそんな賢治先生の軌跡に少しでも触れるべく、彼が育ったと言う現在の花巻市にある、「宮沢賢治記念館」へ向かった。
そこは、彼が教鞭を取った、花巻農学校(現・花巻農業高等学校)の近くにある、いわて花巻空港から車で約20分程度、盛岡市内からも、30分程度の場所にある。「こんな自然、まだ日本に残っていたの?」という程目をみはる自然の中にあり、これだけ開発が進んだ現在でもまだ、美しい状態にあるということは、彼が生きていた時代は、どれだけのものだったのか?と、私は空想を試みて、タイムトラベルを楽しんだ。
宮沢賢治は、岩手県をイーハトーヴと呼び、そこは銀河の空間であり、四次元宇宙であると言ったそうだが、それも深くうなづける。
加えて、私が美しいと感じている作品、「武士道」を書いた、新渡戸稲造も、岩手県盛岡市に盛岡藩士の息子として生まれている。
イギリスの、湖水地方や、この春に旅した南ドイツやスイスともちょっと通ずる美しさがある場所だからこそ、宮沢賢治や新渡戸稲造が手がけたような、素晴らしい作品が生まれたのに違いない。私の確固たる信念として、美しい作品は、美しい場所からしか生まれないと言う思いは、またさらに強まった。
「実家へ戻れば、確か宮沢賢治作品集が、本棚の片隅に置いてあるはずだ。今度関西へ帰ったら、あれを持ち出そう」
私はそんな事を考えながら記念館に併設されたみやげ物屋を辞した後、そこから見える見事な田園風景を眺めて、そしてその景色を、強く目に焼き付けた。
■宮沢賢治記念館
└http://www.miyazawa-kenji.com/kinenkan.html
2009年07月17日
盛岡へ

ちょっと用事があって、今日から岩手県の盛岡へ行く。
岩手県へは、10年以上前に宮城県の仙台にある友人宅を訪れた時、仙台からはそんなに遠くない平泉へ連れて行ってもらったので、入県(そんな言葉、ある?)したことはあるが、盛岡まで北へ行くのは初めて。
「涼しいのかな~」と、天気予報を見ると、今のところ日本では、北海道と青森県以外の全県が猛暑で、どこへ行っても暑いのだとか。
さらに、盛岡は京都と同じく盆地(=北上盆地?)なので、熱気が停滞して、想像以上に暑いらしい。
「ひぇ~、京都と同じ感じ?」
そう想像すると、夏の京都の、ムシムシとした湿気が頭をよぎり、心なしか喉が渇く。
さらに来週は、その京都で友人の結婚お祝い会を開催するので、私は1週間の間に、盛岡の暑さと、京都の暑さを体験することになる・・・。
しかも、ここ名古屋もアンビリーバボーなほど、暑い。
「梅雨も明けたし、これからが気合の入れ時だわね~」
それなのに、今朝は大雨が降っている。
中空(中部国際空港)から盛岡へは、JALが飛んでいるので、それで一気に北上する予定だが、こんなに雨が降り、雷が鳴っていて大丈夫だろうか。
リビングの窓から大粒の雨が落ちてくる暗い空を眺めながら、「でもまぁ、留守の間に庭の木にたっぷりと水を与えることが出来て、これはこれでよかったわ」と、ひとりつぶやいた。
つぶやいた後、またつぶやいた。
「それでもせっかくだから、飛行機が飛び立つ頃には、晴れてくれたらいいのにな」
2度つぶやいた後、私は荷物をつめるため、小さなスーツケースをしまってある寝室のクローゼットへと足を向けた。
そうそう、もって行くシャツにアイロンもかけなければ、いけないな。
2009年07月06日
阪神 VS 中日戦へ行く



子ども英会話の研修は、想像以上に厳しく、私たち受講生はノイローゼ一歩手前(?)で、頑張っている。
毎回習ったことの実技テストがあって、ペーパーテストまである日にゃぁ、受講生たちの緊張は頂点に達する。ママ受講生たちのその緊張を察してか、前日まで元気だった子どもが、研修へ行く翌朝、「突然熱を出した」と先日、2人のママが言った。
大学時代、幼児心理学を勉強したと言うひとりの受講生は、「それはきっと、ママの緊張感が子どもにうつったか、あるいはママを研修に取られたくない子どもの無意識の表れか、どちらかも?」と言う。
ナルホド~。
子どもの感受性って、そんなに凄いのねぇと、私は大変感慨深く思った。
で、自分に子どもがいない私は、未だに子役をやっている訳だが、先日、父親と猫の世話でお疲れ気味な実家の母を気遣い、名古屋ドームで繰り広げられる「阪神 VS 中日観戦」へ、彼女を誘った。
人からもらったチケットは、ベンチ真上の特等席で、選手たちの顔がすぐ近くで見られる。
ただ、それが中日側なので、見られるのはドラゴンズの選手である事と、周りがほとんど中日ファンだという事が、少々気になったが、私は子ども英会話レッスン受講のストレス発散に、母は父と猫の、お世話ストレス発散をするべく、いそいそと球場へ向かった。
ところで、私が名古屋ドームへ入るのは、2回目だ。1回目は4,5年前だろうか?会社員時代の仕事で、ドームで開催された展示会の説明員として、出張で訪れた事がある。
その時はグランドに降りて、懸命に自社製品の説明をしたが、今回はベンチに座って人の試合を眺めて、手を叩いたり、文句を言うだけですむから、楽チン、楽チン。
・・・と、思ったら、それは物凄く甘かった。
ベンチ真上辺りは、比較的おとなくしている観戦客が多い場所だが、それでも中日席である。
阪神の選手がヒットを飛ばしたり、ナイスキャッチをする度、喜んで手を叩きかけては、周囲の目を気にして小さく動かねばならぬ。
「ううう、思い切り応援できないなんて、更にストレスたまる・・・」
そう思いながら、ふと前を見ると、な、な、な、なんと。中日席なのに、堂々とタイガースのユニホームを着て、黄色いタオルを頭に巻き、リズムを取るプラスチックのバット型棍棒まで持っているカップルがいる。
お主たち、やるな。
近くに同胞がいるとなると、私も少々勇気が出て、兄貴(=金本選手)がバッターボックスに立つたび、大きな拍手を送る。そして、誰かがヒットを飛ばすと、だんだん手を大きく叩くようになった。
さらに、徐々にヒートアップした私は、とうとう前に座るカップルたちの肩を叩き、「阪神ファンでいらっしゃるのですよね?私も阪神ラバーなんですけど、少々アウェイな感じで肩身が狭いですね」そう話しかけると、二人は嬉しそうに、「頑張りましょう!」と、さらに応援の動きが大きくなった。
その様子を見た、私の横に座る老夫婦が、話しかけて来た。
「阪神ファンなのですか?ほう、やっぱり。で、どちらにお住まいに?えっ?名古屋?さらに出身は大阪で?ナルホドねぇ」
「やっぱり、まずいですよね?」
苦笑いする私に、奥さんの方が答える。
「いえいえ。出身地のチームを応援したくなるのが、人の性というものです。うちの娘夫婦の家でも、中日ファンの娘と、東京出身でヤクルトファンの旦那の間で、子どもたちが右往左往していますから、どこもそんなもんでしょ。ウフフ」
と、とても寛容なお答え。ところが、彼らが寛容だったのには訳がある。その時点で、試合は中日が1点ほど、ずっとリードをし続けていたのだ。
ところが、途中で阪神が逆転をし、私と前の席に座るカップルが盛り上がって、万歳をし、握手しあった時点で、寛容だったはずの老夫婦の態度も若干雲行きが怪しくなり、さらに阪神の勝利が決まり、私たちがハグをせんばかりの勢いで喜んだ後、周りを見ると、そこかしこにいる中日ファンから一斉に白い目を向けられ、優しかったはずの老夫婦の顔にも、思い切り斜線が入っていた。
ま、まずい・・・
という事で、私と母(=ちなみに彼女は広島カープファンなので、試合の勝敗にはあまり関知せず)は、少々身の危険を感じ、そそくさと球場を後にしたのだった。
それにしても、名古屋ドームで「六甲おろし」を歌えるとは、何と言う事でしょう~~~。
大学生の頃から甲子園へ応援に行っても、何故か私が行く日に阪神は負け、ここ数年も、甲子園や京セラドームなどへ何度か足を運んだが、一度も勝ったことがない。
それが、敵の地であの名曲を歌うことになろうとは、これぞ人生の皮肉なのか?
・・・
ところで。
スーパーでせっせと流れる「も~え~よ、ドラゴンズ~」の歌をインプットされ続けた私は、実は時々、ついこの歌を口ずさんでしまうことがある。こんな私が、ここ名古屋の地でも、引き続きこれまで通りのテンションで阪神ファンを続けられるのかどうかに少々不安を感じる今日この頃である事も、最後に激白しよう。
ちなみにこの「インプット(=input)」、子ども英会話には必須事項で、とにかくあきらめずに子どもへインプットをし続けると、いつか彼らから、アウトプット(=output)があるのだと教えられた。この事は、自分の「も~え~よ、ドラゴンズ~」を省みても、非常に納得する。
2009年06月30日
静岡へ行く

ちょいと用事があって、週末に静岡へ行ってきた。
静岡には、10年以上前に兄夫婦が住んでいたことがあり、私にとってそこは全く馴染みのない街ではない。それでも、たいていは大阪や名古屋から東京へ向かう時、通過するだけの街に降り立つのはちょっとワクワクする。
街に入った途端、「そう言えば、会社員時代、仕事でここへ来た時は、駅前のビルで講師をした」ことを思い出した。
当時所属していた部署では、年に一度売り出される新商品の特徴やセールスポイントなどをパワーポイントにまとめて、関係営業マンに紹介して全国行脚する、「勉強会」が春から初夏にかけての風物詩だった。
首都圏や近畿圏を担当すると、数百人の前で約1時間も話さなければならないが、地方都市になると、50~100人程度にぐっと減るので、みんなどちらかと言うと、出張後に美味しい料理とお酒が飲めて、人数もそれほど多くない地方都市を担当したがった。
私も、じゃんけんに勝っては、博多、広島、浜松、金沢、仙台などをまわり、ラーメンや餃子、広島焼き、牛タンなど、その土地ならではの食を堪能した覚えがある。
こう書くと、随分楽しそうな出張だが、もちろんそれまでの準備が大変なのだ。60分間のスピーチは、ある程度の基本は決まっているが、自分なりの言葉で脚色して暗記し、さらには聴衆を引き付ける「つかみ」も必要だ。
この「つかみ」に失敗すると、その後の60分もことごとく滑る。
広島で講師をした時は、「広島と言えば、広島カープの山本浩二さんですが、私の母が彼の大ファンだったので、我が家には『ひとり』と言う、彼のレコード(CDでないところが悲しい・・・)があったのですよ~」と、喜び勇んで話し始めた。
ところが私が勤務した会社は、大阪と東京に本社があり、社員は関西人が圧倒的に多い。広島にある営業所も、そこに勤務する人で、根っからの広島人はほとんどいない。
「へっ?山本コージって、誰?」という感じで、完全につかみの役割を果たせず、その後もボロボロに崩れていった事を、しかと覚えている。トホホ(涙)
で、話は静岡に戻る。
海辺の市場では、新鮮なネギトロ丼を堪能し、日光東照宮の基になったと言う、久能山東照宮へ上り、富士宮焼きそば、浜松餃子、静岡おでんにパクついて、その後繁華街をブラブラしていると、何だかすごい人ごみに遭遇した。
「何だ何だ?」と、角を曲がると、そこにはどこかで見たことのあるオジサンがいて、私と目が合うと、ニッコリ微笑みながら、手を差し出してきた。
「アレッ?私、何でこのオジサンと握手するのだろう?」と思った途端、そのオジサンが枡添厚労省大臣だと気づいた。
私が呆気にとられて、手を握られるままになっていると、彼は隣にいる女性を指して、「この人が、今度、静岡県知事選に立候補した女性ですからね。同じ女性同士、どうぞよろしくお願いいたしますね」と、熱い思いを告げられた。
「あぁ、そう言えば静岡は、空港の立ち木問題で、知事さんが退任されたなぁ~」なんて、ボーッと考えていると、その立候補したと言う女性が、「一緒に頑張りましょうね」と、彼女もまた熱い思いを私に訴えてきた。
「アタシ、愛知県民なんですけど~」とは言えずに、ただ首を縦に振っていると、その様子を横では何台ものテレビカメラが撮影していた。
きっと、夜のニュースか何かで、「女性支持を沢山集めている、○○候補!!」なんて放映されたのだろう。(たぶん)
そんな訳で、久しぶりの静岡行脚は、何だかわからないまま自民党の応援演説の中に巻き込まれ、そして熱気にもまれて終了し、その後どっぷり疲れて名古屋へ戻ったのであった・・・。
【追伸】静岡B級グルメの中では、「富士宮焼きそば」がピカイチだと、思いましたデス~
2009年05月26日
ヨーロッパの旅、まとめ


ダラダラと続いた、ヨーロッパの旅記録(あ、新婚旅行だっけ?)も、一応今回の巻で終了しようと思う。きっと、何かを思い出せばそれをネタに時々何かを書くのだろうが、旅行ネタなど書いていられないほど、日常生活に面白いことが起きるので、区切りの良いところで一旦終わらせることにした。
今回は、初の試み?で、旅行記を時系列にしない方法で書きなぐってみた。
最も印象に残った、パリのビストロから始め、次の話題へと数珠繋ぎにしていくやり方は、私の性分に合っていた。先へ進んだり、元に戻ったりした回想は、「ああ、アレを忘れていた」と気付いても大丈夫。その話題に戻るため、何かと何かをつないでいけば、違和感がないという利点があった。
この方法だとこれから先、忘れていた話題をふと思い出した時に、また付け加えられそうだ。
とは言え、一体どういう順序で旅をしたのだろう?という疑問をお持ちの方のため、進んだ行程を順に地図へと記してみた。自分でも「あぁ、こんな風に進んだわけね」と、改めてイメージすると、思い出が鮮やかに蘇る。
地図には地名を記してあるが、念のため、ここにも書いてみよう。
成田
↓
フランクフルト (ドイツ)
↓
リューデスハイム (ドイツ)
↓
ハイデルベルク (ドイツ)
↓
ローテンブルク (ドイツ)
↓
ディンケルスビュール (ドイツ)
↓
ホーエンシュバンガウ (ドイツ)
↓
リヒテンシュタイン (リヒテンシュタイン)
↓
インターラーケン (スイス)
↓
ベルン (スイス)
↓
パリ (フランス)
↓
モンサンミッシェル (フランス)
旅行中に訪れた自然遺産と、文化遺産は、合計8つ。
ライン渓谷中流上部 (ドイツ)
ヴィースの巡礼教会 (ドイツ)
ユングフラウ・メンヒ・アイガー (スイス)
ベルン旧市街 (スイス)
パリのセーヌ河 (フランス)
パリの凱旋門 (フランス)
ヴェルサイユの宮殿と庭園 (フランス)
モンサンミッシェル (フランス)
ということで、長きに渡りお付き合い頂いた方には、最後まで読んで下さり、ありがとうございました。
ダンケ、メルシー、サンキュー&シェイシェイ。(ところで、あのカメラオヤジは、お元気かしらん?)
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■追記
「やっぱり書き忘れがあったのか?」と言われそうだが、セーヌ河クルーズを楽しんだ時、「あの辺りに、フランスの前大統領、シラクさんが現在お住まいの家があるのですよ」と教えられたことを、今思い出した。オルセー美術館のそばを通った時のことだ。
「おお。あの日本好きだと評判だったシラクさんが?」と、ミーハー気分全開になったことを必ず書こうと思っていたのに、つい書き忘れた。仕方がない。また今度、機会を見つけて、別の形で書こうと思うので、覚えておいてね☆
2009年05月26日
パリだ!


スイスの首都、ベルンからTGV(フランスの新幹線)に乗ること約4時間半。初めてパリに到着した時の感想は、「えっ?パリって、こんなに汚いの?」。
ビックリする程ゴミは落ちているし、建物も何だか薄汚れている。パリ中心街に向かうほど、それは緩和されたけれど、でもやっぱり大都会特有の人の多さと、道端に落ちてあるゴミにちょっと辟易とした。
:::
大学1年生になった春、私は第二外国語にドイツ語を選んだ。友人の多くがフランス語を選ぶ中、私の選択は「えっ?何で?」と、周囲に驚きをもって迎えられたが、この時のチョイスには、理由がふたつある。
まず、私はどちらかというと、皆が選ばない道を選ぶ傾向がある。言い方を変えればつむじが曲がっているのだが、多くの友がお洒落な香り漂うフランス語を選ぶのを見て、単純に「私はやめよう」と思ったのだ。
そして、ふたつめ。それは当時、「フランス人はプライドが高く、わかっているはずなのに英語は決して使わず、旅行者に冷たい」という、ステレオタイプの通説があったから。
そんなプライド高き国民の言語なんかを、勉強するなんざぁ、あたしゃヤダね~と、医学の道を目指すでもないのに、ドイツ語を選び、「イッヒ ビン ミナック」(=私はミナックです)などと、シャックリに毛が生えたような発音練習をしていた。でも実は、心のどこかでずっとフランス語への憧れを捨て切れなかったのだ。
これは、「けっ。東京なんか、ちゃんちゃらおかしくて、住めるかっちゅうねん」という、大阪人特有の台詞に似ていて、私がアンチ・ジャイアンツを続けているのも、裏を返せば、東京(=ジャイアンツ)への大きなコンプレックスと憧れがあるのを否めない。
その自分の内なる憧れを素直に認めようと思ったのは、サルコジさんがフランスの大統領に就任した直後、パリを旅した知り合いから聞いた、この台詞を耳にした後だ。
「彼は愛国主義者だから、フランス語を解さない移民などは、強制的に語学学校へ送られるらしい。つまり、フランス語を理解せずに、あの国で暮らし働くのは、今後困難になる模様」というもの。
昔の私なら「チキショ~。ますます、フランスなんか行かないぞ~」と思っただろうが、歳を重ね、昔よりは思慮深くなった私は、サルコジ大統領のこの考え方に、敵(?敵なのか?)ながら、ちょっと共感した。
「愛国心って、いいわよね」
そう思った後、40歳を前にして、フランス語を習おうと決意したのだが、これも、相当つむじが曲がっている。
そして、今度は「イッヒ ビン ミナック」に代わり、「ジュマペール ミナック」をくり返す生活をして、そしてとうとうこの度、目出度くフランスの地を踏んだ。
パリに到着したばかりの私は、かの地の欠点ばかりに目が行ったが、その後は人懐っこいパリ市民と、「ケセラセラ」的に生きる、ラテンの人々の空気に触れて、すっかりあの街に魅了された。次回は、パリだけに滞在するような旅をしたいなんて、すでに想像をしている。
それにしても旅は、生活に風穴をあけてくれる、ビタミン剤のようなものかもしれない。
旅先で、私は日本を恋しく思うし、いくらパリに魅了されても、私が生きるのはやはり日本だと強く感じる。そしてこれは、どこへ旅しようと、必ず己の中に湧く感情だ。まるで、日本を好きだと思うために、わざわざ外国を旅しているのではないか?とさえ、思う時がある。
9日間なんて、あっという間で、旅のうちに数えることなど出来ないかもしれない。それでも、たったこれだけの期間に見たものや味わったもの、そして感じたことは、私の体内で醸造され、どこかで化学変化を起こしつつ、何かの機会に、きっとアウトプットされるのだろう。
家に戻り、締め切りがあった書き物を提出し終えてからの私は、少し無気力になっている。昼間はもの凄く眠いのに、夜中は眠れなくなって、延々とテレビを観たり、本を読んだりしている。
今頃になって、時差ボケにでもかかったのだろうか?などと思いつつ、私は今日、ヨーロッパで見た景色を頭に描きながら、初夏の日差しが降り注ぐ庭で、買ってきたばかりのストロベリーフィールズの苗を植えた。


